田之助は1845年の1月8日、五代目澤村宗十郎の次男として生まれる。
澤村家の御曹司としてわがままに育ったらしい。幼なじみには後の五代目尾上菊五郎などがおり、踊りの稽古など兄の訥升と共に厳しくしこまれていた。その当時、七つか八つ頃の稽古の様子を五代目菊五郎が語っているが、一番稽古がこすくって悪戯者だったのが自分でその次が田之助だったと言っている。師匠というのは厳しいものなので、随分怖ろしい目にあったそうである。菊五郎と同様ませていて小理屈の一つも言うくらいだったのだろう。いわゆる居残りをさせられ、厳しくそして丁寧に教えられた。
3歳の時、「菅原伝授手習鑑」の飛梅の精にて澤村由次郎と名乗り初舞台を踏む。その年「大太夫」と呼ばれた五代目岩井半四郎が亡くなっている。
ペリー来航の年、父が名古屋で没し後ろ盾がいなくなる。52歳であった。
その後10歳で黙阿弥作の「都鳥廓白波」(忍ぶの惣太)にて梅若丸を演じ、見事に小団次を食ってしまった。二人の共演はそれだけではなく、小団次が釜煎の五右衛門をやった時には五郎市をしたがそれも同様なものであった。小団次は上方出身の役者で名人といわれた人で、五代目菊五郎にも影響を与えた人物である。忍の惣太に関しては、最近では惣太に団十郎、梅若に菊之助という配役で見たが、これをわずか10歳という年で勤めた田之助というのはやはり非凡だと感心させられた。当時の若者は今よりもっと早熟であったのはわかるが、後ろ盾もいない御曹司としての気概はそうとうなものだったのだろう。初演時、主人公の傾城に化けている盗賊(男)を坂東しうかが勤めた。後に田之助も得意とした伝法で過剰な女を得意とした女形で、田之助にも少なからず影響を与えていたと思われる。
話がそれるが、当時見られる傾向で真女形が演じる女装の男というのがある。お嬢吉三しかり弁天小僧しかりである。弁天小僧は五代目菊五郎初演であるが、実は粂三郎(後の八代目岩井半四郎)が勤めるはずだったのでは?という裏話もある。錦絵の世界でも残酷絵という血みどろの絵がはやっていた。
ゆがんで腐敗している。
でも美しい。
サブカルチャーであったものが、主流になっていく感覚なのだろうか。どこか現代とかぶる気がするのである。しかし、こういう妖しげなジェンダーのゆがみを演じる女形が今いないのが、惜しいことである。
その後、15歳で名題に昇進し、名も田之助と改める。わがままできかぬ気だから、手を焼いていて、これでちょっとはおとなしくなるだろうという算段で襲名したという話もある。
そして翌年に守田座の立女形(女形最高位)になるのである。十代でこの抜擢は一時代前の五代目瀬川菊之丞以来である。幕末の動乱期に伴う不景気の波と、実質本意になってきた歌舞伎界という背景に、パトロンという後ろ盾があってこその大抜擢ともいえる。そのほか、女形自体減ってきていたという説もある。若くて美しくて、人気も芸もある、しかも家柄もいいという好条件に恵まれていた田之助は、父親がいないというハンデを乗り越え文字通り上りつめたのある。
しかし、彼は未だ自分に当てて主役をはれる役には付いていなかった。当時はまだ小団次やしうか、彦三郎芝翫など人気のある脂ののった役者がいたのである。しかし、人気は鰻登りで、男女を越えたファッションリーダーであり、錦絵の数も他の役者に比べずば抜けて発行数が多い。悪婆物に出会う10代後半の田之助はまさにアイドルであった。プロデューサーのいない当時、彼は自分をプロデュースし、自分の売り出し方も周到に計算していたようだ。その気質は死ぬまで変わらなかったようで、気前よく金をだし、そのかわり自分の紋の入ったものに付け替えさせたり、わざと混んでいるところを歩いたり、正月は茶屋をまわり娘さんとその前で褄を取って羽をついたり…見物が集まるのを承知で行動していたようである。
彼の才能は、足を痛める前に女形の大役をほとんど演じていることでわかる。三姫といわれる「廿四孝」の八重垣姫を17歳で、「鎌倉三代記」の時姫を18歳で、「金閣寺」の雪姫を21歳でやり、「忠臣蔵」のお軽、「鏡山」のお初、「吉田屋」の夕霧、「恋飛脚」の梅川「先代萩」の政岡などなど。その他白井権八、大星力弥、桜丸、勝頼といった前髪のほかに、曾我五郎、菅丞相、男之助のような荒事、実事も演じている。五代目宗十郎の次男として澤村家の家に生まれ、幼年からその才能を見いだされ、まれにみる早熟な芸の力を身につけ、かつ発揮していった時期でもあった。
田之助と悪婆物との運命的な出会いは、彼が20歳の頃である。悪婆とは、現代ではあまり見られなくなった役柄であり、けしてメジャーとはいえないものなので、多少説明が必要である。
一言でいうと悪い女である。女だてらにゆすりをし、人を殺す。残忍な性格で男言葉をつかう。衣装も渋く、下層の女を思わせる。しかし、年齢は年増であるといっても、20代前半。元来美しい女形が演じるのだから、醜いわけではない。悪い女の裏に、根は優しく純情で美しいという性質をあわせもつのである。田之助が初演した「切られお富」にしても、身体に傷を負った姿を好きな男に見せるのが恥ずかしいという仕打ちがなんともいえず、情のあるものだったという。
悪婆物は、最近では演舞場で「杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞえ)」がかかったくらいであろうか。四世南北の作で、主役は女形で、八ツ橋と土手のお六の二役を勤める。歌舞伎好きならおわかりであろうが、この二役はまったく性質が違う女である。八ツ橋は美しい傾城で、お六は見せ物小屋の蛇娘という設定である。それを一人の役者が早変わりで見せるという趣向が当時はやった。そして、田之助の一時代前から、このような役的に美しくない女形の役が出現してくる。同時に狂言は立役まかせであった女形が、堂々と主役をはるようになっていく。「おきゃん」とか「おてんば」などいわれる江戸女の気性の風土のなかで育成されたものであり、性格も田之助同様きつく、短気で自己主張が強い女形が出現するのである。
そんな女形達が、今までの女形芸で満足するはずもない。
悪婆物の一つに立役のものの女への書替えというものがある。「女定九郎」「女鳴神」「女暫」などなど。この手のパロディ物は明治に入ってからも細々と続いていたが、明治末にはすでに見られなくなっていった。悪婆物は明治に入り、小芝居などに追いやられ現代ではそのレパートリーもわずかにしか残っていない。
なぜ悪婆物が衰退していったのか、それの最大の原因は時代の変化にあるような気がする。
幕末から明治初期にかけての歌舞伎界は最後のあだ花であった。その時代に大いに受けた田之助と、明治に入り、劇聖として六代目菊五郎および現代の役者達にも影響を与えた九代目団十郎が同じ劇界に存在していた。片方は不遇な死をとげ、もう片方は明治という時代の変化に対応し高尚趣味でリアリティだけを追求する新しい歌舞伎のスタイルを確立していく。九代目の功績と野暮な時代とのマッチング。
明治という時代は江戸がなくなっていく過程の第一歩であった。
今では知るよしもない江戸の悪婆物の本当の姿は一体どんなものであったのだろうか。女形のありようも変わっている現代それは無理な話なのだろうか?
さて、田之助であるが、二十歳の初夏、初めて自分を主人公として描かれたものが俗に言う「切られお富」である。作は当時二代目河竹新七を名乗っていた河竹黙阿弥である。
「切られ与三」の書替えということは言うまでもない。
与三郎と通じた赤間源左衛門の妾お富は、三十三カ所も切られ川に棄てられる。しかし棄てに行った子分の蝙蝠安が心変わりをし、お富を助け、女房にして隠れている。ここで、3年後に再開した与三郎のために、お富は蝙蝠安を殺し、身を苦界に沈めて二百両を調達するが、父の丈我から与三郎とは実の兄妹、蝙蝠安は主人であったことを知り、自害する。
責め場、ゆすり場、殺し場、そして宿縁の近親相姦。歌舞伎は陰惨で官能的な世界も容易に受け入れる度量の深さがある。
田之助はお富の性根を実にうまく表現していたようである。一つはセリフ回しであり、伝え聞きではあるがその工夫がわかる。 お富は娘時代新内語であった。与三郎に恋をし、身を沈めてからもその恋情は娘時代とけして変わらない。新内語であったという経歴を見ても、お富は粋な江戸の女であったことが知れる。男女の情愛を熟知したようでいて、好きな男には娘のように慕う。陰惨さと純粋さ。単純で複雑な人間。
このバランス感覚が歌舞伎の醍醐味であり、江戸末期から幕末の芝居の特徴である気がする。
その翌年俗に言う「紅皿かけ皿」でかけ皿を演じ大当たりをとる。この芝居も責め場が見所の一つである。ぶら下がって、折檻をうけるのであるが、このとき吊っていた綱が切れたのか、留めてあった松の枝が折れたのか、舞台に落ち、右足に大けがを負う。血が大量に流れ、状態もひどかったのだが、田之助はたいした治療もせず、舞台に立ち続けるのである。後の脱疽という奇病の原因とされている。そのとき足に紅絹を巻いていたものがはやり、怪我もしていないのに、足に紅絹を巻くというのが、若者の間でもてはやされた。
足の痛みは相変わらずで、事故から半年後ついに休座ということになる。その後黙阿弥の作でいくつか新作を発表するが、病状が悪化し、「姐妃のお百」を初演することができず、再び休座となる。足を痛めて2年後の事である。
田之助の足の状態はすでに手遅れという状態であった。それまで、パトロンやらの世話で数々の名医にかかるが、(その中には御殿医まで含まれる)最終的に横浜にいるヘボンという外国人医師を紹介され足を切ることになる。田之助の足は腐っていたのである。深い傷をたいした治療もせず、ほっておいたのが原因だが、その後の処置も、足をきつく巻くという脱疽の治療としては逆のことをしていた。悪くなって当然である。
当時のエピソードで、田之助に袖にされて死んだ芸者や坊主のたたりという噂が流れた。病床の田之助とその死んだ芸者と祝言を上げさせたという。それでたたりがおさまったのかはわからないが、10代前半の頃のよいパトロンであった寛永寺の坊主には晩年までうなされている。それも、物語としてはよく描かれるところである。
そして、横浜で田之助は右足の膝から上を切断するのである。
同行していたのは、姉のおうたであった。母のいない田之助の母代わりといっていい。切った後は、案外元気で「お茶漬けが食べたい」だのわがままを言っていたそうである。田之助が松葉杖をついて舞台に立つというのでヘボンは義足という物を紹介し、アメリカから取り寄せる。それが到着し、退院するとき関内の下田座で芝居をしたそうである。それが足を切って初めての舞台だった。そのときの事をヘボンは、足のない役者に喜んでいる日本人はなんて残酷な人種だろうと書いている。それに出演した田之助にもあきれたことだろう。ヘボンはもちろんその芝居に招待されていた。異国のヘボン先生の大手術と足のない名優田之助という世間の興味をかき立てるには十分な要素である。ちなみに我が国初の義足をつけた人物としても、田之助は有名なのである。
1年ぶりに江戸に戻った田之助は、三座掛け持ちという最高の扱いをうける。弟子におぶさり、小屋から小屋をめぐり芝居をする。久々の田之助の姿に江戸の市民は熱狂したころだろう。
足のない田之助のために舞台も工夫された。当時はやりの早変わりも鮮やかにこなした。セリフも客を喜ばせることを知っている田之助ならではの「長い間おまたせしました。」的なセリフ。この頃が田之助の頂点と言っていいだろう。後は落ちていく運命だ。
田之助が復活した明治初年は、戊辰戦争や上野戦争があり世の中が幾分騒がしい時であった。物価は高騰し、芝居町も不入りが続いていた時期でもあった。それに追い打ちをかけるように、左足も痛み出した田之助は、明治3年再び手術を受け、左足を切断する。その後も復活し、いざり車や、馬に乗ったままなど、工夫をこらし、中央の舞台に立ち続ける。田之助のために驚くような仕掛けも登場する。高二重の中から、田之助を縛った金物を操作し、上下に行ったり、又は立ったり座ったり出来るというものだ。しかし、芝居町全体の不景気も相まって、人気は芳しくなかったようだ。当時は田之助ならずとも、かの五代目菊五郎も資金がなく、逼迫していたそうだ。
田之助の病気はだいたい二年おきに再発している。最後の方は身体そのものも痛みだしたらしく、壊死していく足や手をだんだんに切り落としていった。最終的に右足は大腿部から下がなく、左足は膝から下右手は手首から上がなく、左手は小指以外のすべての指がなかった。狂い死にしたといわれているが、その狂態がいつごろから始まったのかさだかではない。両足がない時に兄貴の訥升を舞台上でなじったことが最初であるとするか、菊五郎に大根と罵倒したのがそうであるとかいろいろ推理することができるが、いずれにしろはっきりしたことはわからない。女形でも気丈な男だったので、両足をなくしてからは何かとイライラしていたそうだ。涙もろくもなった。それが狂態というのならそうだろう。しかし、少なくとも中央にいるころは、田之助は正常だったと思う。
そして、明治5年村山座で黙阿弥の作「国姓爺姿写真鏡(こくせんやすがたのうつしえ)」(古今彦惣)にて、古今を演じる。これを一世一代として大舞台を引退する。この演目はいわゆる明治のザンギリ物で錦祥女が唐ではなくロンドンに行ったという設定のものであった。「白波の泡にひとしき人の身は、夜半の嵐の仇桜、明日を待たで散ることあれば、これがお顔の見納めかと、思いまわせばまわすほど、お名残おしゅう御座りまする。」という得意の泣き台詞で江戸の庶民に別れを告げた。
明治5年といえば、猿若町の顔役、三座の座元、作者たち一同が東京政府に呼ばれて最後のお達しを受けた年でもある。歌舞伎を史劇にするように、西欧に見せても恥ずかしくないようにと指導があったのだ。幕末の歌舞伎は黙阿弥と小団次の生世話、小団次なきあとそれを引き継いだ菊五郎に田之助の仇っぽい責め場と色気で、色と欲の庶民の芝居になっていた。それを新政府は否定したのだった。江戸から明治という時代の推移に乗る体力を持たなかった田之助は江戸ともに足切りになったといえる。
引退から4ヶ月後、芝居茶屋の「紀の国屋」に住み始める。明治に入り、誰でも自由に小屋がもてるようになったので、明治6年薩摩座を買い取り、「澤村座」と改め開場する。
当初、大芝居にも引けを取らないくらいの人気だったが、体の不自由な田之助には出来る役が限られている。田之助の身体も芳しくない状態で舞台も休みがちに なり、そのため次第に不入りになり、明治8年3月「中村座」と改め田之助とは無関係になる。

その後田之助はすぐに大阪へ下った。それからは京都や名古屋などの小屋をまわる巡業の旅に出る。大阪では中村宗十郎と大げんかをしたという。
京都で意識混濁になり、急ぎ東京にもどり、浅草の自宅で没する。
明治11年7月7日。34歳であった。明治に入り、美しい女形から毒々しい悪い女というふうにも言われるようになった田之助は、現在の価値観からはまたはるか遠くなってしまったのだろうか。悲劇のヒーローとして正しい役者としての彼を描くのは、田之助をさらにぼやかし解らなくさせる。憂いのきくうまい田之助の他に、イヤラシイ田之助もいる。「憂いのきくうまい」彼に表裏一体の形で「場当たりが多く、くどく芝居をする」彼がいる。それをつなぎ止めているのは芸の力なのだろう。置き去りにされた田之助は、今では二級品といわれる演目をあたり役としてきた。